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「気が合う仲間たち」と排除の間のデリケートな線引き

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ずっと、書いては消し、書いては消し…を繰り返していたテーマが1つ。 大陸欧州出身のクラスメイトたちと、それ以外のクラスメイトたちの間の関係性について(私のクラスは全体で18名ほど、そのうち大陸欧州とスウェーデン出身の子が2/3、その他が1/3というところ)。 事の発端は入学直後、初めてのグループワークのグループメンバー決めの時。 シラバスでグループワークがあるということは把握していたのだが、実際に課題の説明を聞いてからグループを組もうと思っていたら、肝心の説明の日には声をかけた周りの席の子の多くが既にグループを結成していて、断られてしまった。最初私は年齢が上だから、若い子たち同士でもう組んでいたのかな?と思ったけれど、声をかけていくうちに、実はブラジルや中国やバングラ出身の子らは誰とも組んでおらず(そしてこの子達と組んだ)、大陸欧州とスウェーデン出身の子たちだけが早々と彼らの中で組んでいたことを知った。学年のWhatsAppグループ上では何の素振りもなし。その他勢は「えっ、いつの間に?」状態。グループワークは採点の対象なので、感覚が近しい子達で早々に組んで合意したのだろう。根回しに驚くと共に、あまりにも綺麗に分かれたので、割と意識が高い集団でも(だからこそ?)何も手を入れないとそうなるんだなあ、と興味深く思った。 ランチタイムは当初はグループに関係なく皆で食べたり、グループチャットにはfikaや飲みのお誘いなどがポストされていたが、早々に「大陸欧州勢」と「その他勢」、という大きな構造に分化。1ヶ月も経たないうちにランチは大体同じ顔触れになり、チャットにお誘いは流れなくなった。そのまま定着するかと思われたが、2ヶ月ほど経った頃、大陸欧州勢の中から何人かが分離する形でクラスのダイナミクスが少し変化。有体に言えば、大陸欧州の子達のうち、割と目立つ感じの子達から、大人しめの子達が分離した。 私は基本「その他勢」と仲良くすることが多いものの、年齢や経験もあって大陸欧州勢からも一目置かれるポジションを構築し、彼らが騒ぐパーティーに呼ばれるような事はないけど、個別にfikaに誘われたり、グループワークでもたまに組むこともある、という感じでグループ間を泳いでいた。でも私のように双方のグループと適度に付き合える人はものすごく限られていて、そこには明らかに、境界があった。 双方とも、ク...

修士論文の「スウェーデン式」ディフェンス

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しばらくblogに触れないうちに修士論文を書き上げ、合格し、6月上旬に無事2年間のプログラムを修了。なんだか3月以降は風のように時間が飛び去ってしまった。これから幾つか振り返り投稿をしようと思うのだけれど、この投稿では修士では珍しいのでは?と思われる 修論のディフェンス (先生方曰く「スウェーデン式」)について書いておこうと思う。 「スウェーデン式」と言っても他の分野でも同様なのかは私にはわからないのだけれど、私が所属していた研究科では修士論文の審査は2段階で行われ、 ①審査担当の教官(指導教官以外、指名不可で研究科によってアサインされる)による審査 ②ディフェンスと呼ばれる討論会のような会、 の2つをパスする必要がある。 ディフェンス自体は次のような段取りで行われる: ―――― ・著者による口頭補足(マイナー修正のみ) ・対抗論者(クラスメイトがアサインされる)による論文の概要と強み弱みの説明、約10分 ・対抗論者による質疑(とそれに対する応答)、約20分 ・審査担当教官による質疑(とそれに対する応答)、約20分 ・参加者による質疑 ・全体講評 ―――― 博論のディフェンスを模倣したスタイルで、ただ時間制限がもっとずっと長い博論に対しトータル約1時間なのと、対抗論者(discussant)は外部の先生ではなく、クラスメイトが務める。指導教官は参加しない。 基本クローズドの口頭試問とは異なり、研究科内の人間は参加可能なオープン形式で、論文の概要説明もあるので、修論自体の知識の研究科内への還元と、対抗論者を務める生徒への教育効果も狙っているんだろうなあ、と。実際私自身クラスメイトの対抗論者を務めたが、自分が必ずしも明るくないテーマの60pを超える論文をフロアにわかるように要約・プレゼンし、建設的に質疑を組み立てるというのは結構骨が折れた。同時にクラスメイトの立論や質疑から学ぶことも多かった。 ディフェンスする側として感じた特徴は、自分で内容をプレゼンせずあくまで論文として書いたものを元に全て行われるので、文章の過不足を改めて自覚した、ということだろうか。特に対抗論者は先生ではないので、前提知識があるわけではなく、脳内補足して呼んでくれるということがない。なので質問を受けて「あ、こういう所が言葉足らずで伝わっていないんだな」などと気付くこともあった。 審査担当教官による...

博士課程への出願

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博士課程への進学を希望しており、1月末に3つ応募期限のものがあるので、修論をとりあえず横に置いて、ひたすら研究計画書を書いている。1つは特定の先生の指導可否を仰ぐもので、もう2つは学科単位での一律応募。日本と違って学科試験はないのでとにかく研究計画書が勝負。 そんな時、X(旧Twitter)でとある著名な先生のポストが目に入ってきた。先生の専門分野に関係のない内容で留学を希望する学生から指導依頼が大量に入る、テーマが違うので指導できないと返したら、ではテーマを変更するので指定してくれ、と学生が言ったケースまである、とのこと。 先生を批判する気はない。専門分野が違うと指導を断るのは当然だろう。お忙しい中、そういうメールの数も多く、ご負担も多いのだろうとも思う。ただ、そのポストを起点にコンタクトしてきた学生の学問的不誠実さや失礼さを「学問を何だと思ってるんだ」とくさすような空気が形成され(私はそう感じた)、あげくに「単なるビザ目的では」みたいなコメントもつくのを見て、今修士課程で学び、博士課程を目指している人間として、ちょっと思うことを残しておきたくなった。 博士課程は自分で研究テーマ設定してマッチング先探して研究できる人しか採らないというのは、そういう構造なのでそれに文句言うつもりもない。私の通っている大学院のシステムもそうなっている。 ただ実際留学生として学生をしていると、その不均衡さに色々思うことはある。 2人、クラスメイトの話をしたい。 1人は今の大学院でPhD進学を希望している。今が2つ目の修士課程で、元々いた某国の修士課程(その国で上位層の大学)で学長賞を取るくらいの実力はある。自分の関心も研究したいテーマもある。ただ、関心が西欧的関心と若干ズレており、初留学でそこのアジャストが間に合ってない。 学問的関心を涵養してテーマに落とすまでには時間と訓練が必要だ。 私も正直出来ていなかった。この二年間で相当学んだ。とにかくその分野の論文を大量に読んでマッピングした上で、自分の関心をその学問の文脈の中に適切に位置付けないといけない。でも特に社会科学系の学問は学問のコンテクストだけでなく、社会のコンテクストに異存する部分もあるので、そのコンテクストを知らないと結構ハードルがある。私の関心も日本での問題意識から発生しているので、英語圏アカデミアの文脈に位置付けるのに結構...

論文のバイアス

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研究論文の書き方について指導を受ける過程で、査読を通った(通るために最適化させた)論文のバイアスについては何度か言及があった。中でも言われたのが 「面白い結果が出なかった論文は採用されない(ので最初から書かない)」 ということだ。 特に計量分析においては、どんなに仮説が学説的にもっともらしかろうが、「検証してみたがダメだった」論文は、なにかしらそれを超える発見がないと難しい。結果、その部分は暗黙の了解となってしまう、という話。 これを聞いた時には正直「ふ~ん」と思っただけだったのだが、年をまたいで計量分析のアサインメントがあり、強烈な形で実感することになった。 修士のアサインメントなので事前に先生からは「きちんと先行研究の議論及び統計的思考に基づいてモデルをつくり、統計ソフトを正確に使って検証し、結果を適切に読み取れているかを見るので、新規性や独自性にこだわらなくてよい」「とにかくプロセスを丁寧に残すように」と言われていた。 私が取り組んだテーマは先行研究を見渡せば当然研究対象になっていても良さそうな重要なトピックなのに、まだ「これ!」という論文が出ていない。比較的新しく、近年研究が増えているテーマなので、これから出るのだろうか、と思いつつ研究科が持っているデータを用いて検証したところ、先行研究から論理的に導き出される仮説は否定されてしまった。 「なるほど、結果が出ないから論文になってないのか」 と納得し、私個人のアサインメントとしては、検証の結果仮説は否定された、という体裁のものになった(もう少しニュアンスはあるが)。なお途中で指導役の先生に相談する機会も設けられていたので、①先行研究の状況、②仮説の構築、②モデルと利用する変数を段階的に相談し、最終的に提出。 で、今日はそのペーパーをお互いに批評をしあうセミナーがあった。他の学生のペーパーが割り振られ、大体1本20~30分をかけてペーパーが検証している内容をリキャップし、疑問点や指摘などを著者にぶつけ議論していく。著者はディフェンスをし、あらかた議論が落ち着いたところでモデレート役の先生が講評、という流れ。 私のペーパーはクラスメイトからは特にさほど大きな指摘はなかったのだが、モデレーターの先生にとても不評で、結局やり直すことになった(指摘をふまえて修正する期間があり、最終提出したものが採点の対象となる)。ちなみ...

修論の指導教官との初mtg

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さて、いよいよ修論。 私が在籍している研究科では、修論は最後のセメスターを丸々執筆に充てる。テーマは①研究科が提示するテーマ群、または②独自研究テーマから選ぶことができ、指導教官は研究科によってアサインされる。①にせよ②にせよ11月末までに修論の研究計画書を提出し(その際に一応指導教官の希望は書ける)、テーマや研究手法、それから全体のバランスや相性他諸々を見て、研究科によって指導教官と生徒の割り振りが決まる、というわけ。その後は先生と生徒の個人指導で執筆を進め、5月23&24日にディフェンスがある。 個人的には自分で指導教官を探し交渉を重ねるよりも合理的なシステムだと感じる。 1つはテーマ選び。 卒業後就職が前提で、面白い研究はしたいが特にテーマやアイディアへの強いこだわりがない学生(意外といる)や、予算がついている研究PJに関与したい人は①から選ぶことができるし、自分でやりたい人は②を選べる。①があることで、単純に研究の人手が欲しい先生と関心のある生徒のマッチングができるのでwin-winだ。 もう1つは指導教官選び。 特に②の場合は、先生方の「この分野やこの研究手法はこの先生が詳しい」という感覚に従うことができる。生徒側で全ての所属の先生方に対してこの肌感覚を持つのは難しい。あとは、やはり人間同士なのでどうしても相性もある。最終的に発表された指導教官と生徒の組み合わせ一覧を見ると、色々考慮した痕跡が見受けられ、収まるところに収まっている感じがした。これはアカデミックハラスメントを防ぐという意味でも重要。 私は②の独自テーマで、これまでに授業で教わったことはないが、自分の関心のある領域にドンピシャリの先生がいるので、その先生を希望した。一度修論に関係なく話を聞きに行ったことはあるもののそれっきりだったので、果たして引き受けてもらえるかは全く不透明だったが、無事希望通り決まり、キックオフZoomMTGを行うことができた。 冒頭「引き受けて下さってありがとうございます」と伝えたら、「自分も関心のあるテーマだからね!君から学ぶことを楽しみにしているよ、研究計画書も良く書けていたしね」と言ってくれ、即座に中身の話に入った。非常に生産的で、「弟子入り」という感覚が一番しっくり来るものだった。 実はこれまで書いた卒論も1回目の修士の修論も、ゼミや指導教官の専門分野と異なる分野...

実践EBPMーー授業評価会議に参加してきた

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通っている大学院の授業は必ず授業評価があり、成績評価がつく前にオンラインで回答する。プラスして、科目ごとに4〜5年に一度大掛かりな評価が行われるそうだ。昨年受講した授業がちょうどそのタイミングにあたるそうで、生徒側として参加しないかと連絡が来た。授業の担当教員、ティーチングに携わっていない教員、生徒各2名で評価会議をするとのこと。 今日がその会議だったのだが、これが実践・EBPMという様相で(対象は政策ではないが)とても興味深く、約2時間半の会議があっという間であった。評価や大学運営に関心がある方向けのピンポイントな投稿になってしまうかもしれないが、以下ポイントをシェアしたい。 (1)資料・議題 事前に授業評価会議の資料が送られてきたのだが、シラバスや講義資料のほか、学生の匿名評価アンケート結果や過去5年間の成績分布、先生の自己評価表、改善案などがまとめられており、どれもものすごく興味深かった。単に現場感覚に基づく教員の主観的評価に留まらず、教育学の知見に基づいて実施した教育手法(例えば生徒同士のpeer learning、インセンティブ設計など)が実際に機能したかしなかったか、その判断の要因分析なども書いてあり、これ自体が巨大な実験と実験結果の論文みたいであった。 他にシラバスと実際の教育内容が本当に一致しているか、参考文献が質・量において適切か、成績評価方法が適切か・透明性が高いか、最終成績の分布と照らして難易度は妥当か、社会情勢の変化を踏まえて教育内容に変更が必要か、なども検討される。 これだけ労力をかけるのだからそりゃ4~5年に一度で、普段はアンケート結果に基づく小規模な見直しというのも納得。 (2)参加者と会議 コースコーディネーター、担当教員、同じ学部のシニア教員、高等教育論のポスドク、学生(私)の構成。評価と、評価を踏まえて何を変え何を維持するかが主な議題。シニア教授の方の経験論と、ポスドクの方の研究を踏まえたFBが素晴らしい相乗効果を発揮していた。 例えばリーディングの量が適切かという問いがあれば、 まず主任教員が生徒のアンケート結果と、自己の見解をコメント。 学生(私)が見解をコメント。 興味深かったのはポスドクの人のコメント。例えばデンマークでは単位数に応じて生徒に求められるリーディングの量が決まっており、それを超えるには学生組合と協議・合意する...

Where are you REALLY from? マイクロアグレッションか、相互理解のための糸口か

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今モジュールには一学年上の生徒も参加している。本来は昨年卒業すべきだったが、最後のモジュールと修論だけ残して卒業を遅らせたそう。ランチを食べながら自己紹介タイムになった。 「どこから来たの?(Where are you from?)」 と彼女が聞く。中華系アメリカ人のクラスメイトが「米国」と応えると、彼女はくい下がった。 「本当はどこから来たの?(Yeah, but where are you REALLY from?)」 あ、まずいな、と思った。 こういう問題に馴染みのある人はすぐピンとくると思うが、これは典型的なマイクロアグレッションである。クラスメイトは外見はアジア人だが米国で生まれ育った移民二世。 「だからアメリカよ」 繰り返すクラスメイトに彼女は引き下がらない。 「あなたはアジア人なのかと思って」 「人種はそうだけど、私はアメリカ人だから」 違うクラスメイトが割って入り、人種と国籍は違う可能性があること、特にしつこく聞くことはマイクロアグレッションにあたり適切ではないことを説明した。それに対して彼女はこうコメントした。彼女はナイジェリア人の移民一世だ。 「私は別に差別じゃないと思う。私はブラックであることは外見的にも明らか。でも同じブラックでもルーツは色々で、きちんと知らないと相手を理解できないので、必ずルーツも育ちも聞く。同じブラックでもアメリカのブラックとアフリカのブラックは全然違うから。同じようにアジア人か、と聞くのは差別じゃなくて、むしろ相互理解のための質問だ。」 それを聞いて、移民一世と二世の間の感覚的隔たりを改めて考えてしまった。 私自身は婚姻により外国姓を名乗っているが、アイデンティティとしては日本人の移民一世なので、実際質問をされても特に傷付かないし、何の問題もなく「日本人」と答えるだろう。 しかしクラスメイトのような二世にとっては、人種的ルーツは例え外見的に明らかであったとしても、文化的にはちょっと距離がある。映画Crazy Asian Richで外側はアジア人だけれど中身は白人(Asian outside, white inside)である主人公のことを"banana"と形容していたが、クラスメイトはまさにそれ。中国語は一切話せないし、立ち振る舞いも思考回路も完全にアメリカ人だ。好物はマッケン...

年上の心得

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修論前最後のモジュールは調査手法論で、PhDと共同開講となっている。学外から来たPhDの人が修士で手法論を学んでいるとは限らないからだ。で、実際2名が参加しているのだが、このうちの1人のふるまいを見ていて、年齢なり経験なりが上の人のふるまいについて考えさせられている。 今日は課題のプレゼンだったのだが、修士の子(つまり私のクラスメイト)がプレゼンした際に、PhDの1人が質問をした。 「〇〇の定義は?」 「何故××にしたのか?私であれば△△にする」 質問は的を射ているものもあった一方、アサインメントの要件からして重箱の隅をつついてると思う観点が多かったし、何より質問を装った自説の開陳が長々とあり、若干辟易とした。あなたのアサインメントじゃないんだぞ、彼らは彼らの考えがある、と。が、トドメがすごかった。冷えた教室の空気を察したのだろう、 「ちょっとPhD的な質問かもしれなかったけれど…(Sorry if my questions were too much like PhD level...)」 クラスメイトの表情がみるみるうちに硬くなり、短く回答した後、さすがに先生がフォローに入った。で、帰り道、クラスメイトは「なんなのあれ」という話に。いや~、PhDの人が修士にマウント取る必要なんて微塵もなく、単に建設的にフィードバックすればいいのに、残念な人だ。良い反面教師にしよう、と思っていたら、話の流れで棚からぼたもち的に私の評価があがってしまった。 「tommieは実務経験もあって私たちより知識も豊富だけど、偉ぶってないし、いつも全体を深める質問をする」 比べるのは可哀想な気もするが、当たり前である。私は同じ修士課程で学んでいるので立場は同じで、別に競争する必要がない。自分の方が経験や知識があると誇示する必要も特にない。色んな理由で考え方が違うケースが多いことはわかっているので、疑問があれば「何故こう考えるのか?」と彼らに聞き、より深く理解するために答えを引き出そうとするのであって、別に論破する気も必要性もない。彼らからしたら初歩的な質問の場合もあるが、それはそれでいい。バックグラウンドが違うのだから、こういうことが伝わらない可能性がある、ということが明らかになるだけでも意味がある。先生への質問も同じ。話し手からもっと多くの内容を引き出せるような質問をすることを常に心掛けて...

「問い」の立て方と学術論文の価値

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M2の中心は勿論、修論である。 正直、悩んでいる。もっというと、苦戦している。 テーマそのものというよりも、問いの設定に。 元々課題意識があり進学した。私は現場(日本)が長かったので、課題意識はどちらかというと現場での課題感を出発点に、その解決を探す過程で芋づる式に発展させてきた。加えて実務畑&コンサルなので、今の日本を見て例えば諸外国のこういう部分の先行事例が知りたいなとか、こういう場合はどうしているんだろうかとか、逆に現地に暮らしていてここどうなってるんだろうとか、そういうタネはいっぱいあるし、これまでも実態調査は数多くしてきた。けれど。 単に調べてまとめたり、そこから日本への示唆を抽出したところで、それはコンサルの調査報告書であって、学術論文ではない。 学術論文には、学問的な貢献が求められる。アカデミアの大きな理論の流れを踏まえつつ、自らの問題意識をその文脈に位置付け、理論を実証的に検証するのか、理論がカバーしていないと思われる領域を開拓するのか、とにかく論文の貢献する価値や意味について、社会的意義だけでなく、学問上の意義についても、彼らの言葉(単に言語という意味だけでなく)で明らかにする必要がある。そしてそのためにはアカデミアの議論の把握だけでなく、全体を導く適切な「問い」が必要だ。 で、私はまだまだ英語圏のアカデミアでの文脈での 問いを立てる訓練 が足りていないなあと痛感する。 先日は先行研究のシステマチックレビューの課題があったのだが、先生からのフィードバックは「レビュー自体は非常に高い水準だが、問いはまだまだシャープに出来る。特にDiscussionで示す次の研究に導く新たな問いは、normativeなだけでなく、empiricalな検証が出来るレベルの「問い」まで落とすように」と戻ってきた。要は「問いがまだ大きすぎる」。別の先生からも「捨てる勇気を持ちなさい」と言われたこともある。 他の機会でも言われたのが、引用してもらえるのはメッセージがクリアでシャープな論文、エレベーターピッチのメッセージを考えて、そこから問いに戻せ、と。テーマは複雑で当たり前、論文は何本書いても良い、1本で収める必要はない、だから1本に入れ込もうとしすぎるな、と。実際エッセイを書いていても、主張がハッキリした論文は引用しやすい。 ということは頭ではわかっているのだが。 色々思考...

大学院の教育的役割

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よくネットで大学院留学体験記を読んでいると、米英の大学院は事前アサインメントの量がやはり膨大だなあと感じる(勿論分野にもよるが、私のような社会科学系の場合)。1週間で1000pとか、2000pとか。論文1本20pとして、50~100本ぐらいか。これを読もうとやはりスキミングの能力は相当鍛えないといけない。いや〜すごい。翻ってスウェーデンの私の在籍している大学院ではそこまでの分量は求められない。一番多かった時は確かに中3日で論文5~7本や、精読のアサインメントで10日間で本3冊とかあるにはあったが、どちらかというと例外的。しっかり数えていないが、昨年進学から 4ヶ月が経過した年末時点のブログで104本・冊と書いてある ので、1週間にならすと平均的に300pぐらいか。その代わりかなりしっかり読み込むことが求められる。 違いは何だろうと考えると、 大学院の教育方針 のようなものに行き当たる。 大学によっても違うのだろうと思うが、少なくとも私が在籍している大学院は ーーーーー ・ついてこれる人を伸ばすより、皆が一定レベルに到達するよう教育する ・落ちこぼれさせない ーーーーー に重点を置いているように感じる。というのも、この方針を事前課題の分量だけでなく、色々なことに通底して感じるからだ。具体的には以下の3点。 1)授業設計 基本的に必修が多いのだが、授業のモジュールは知識インプット(授業、だが基本的には自分で読んで学習)⇒学習内容のアウトプットとフィードバック⇒最終アウトプット、のサイクルで成り立っている。最終的な結果にたどり着く前に、途中経過としてグループディスカッションなどの機会が設けてあり、段階的に知識を定着させる仕組み。特にピア・レビュー、ピア・ラーニングの機会が多い。これはグループディスカッションで議論を通じてお互いの理解を補強しあったり、クラスメイトのエッセイに建設的批評を加える、というもの。特に後者は査読の練習でもあり、客観的に自分を振り返るきっかけにもなるので、まじめにやればかなり効果が高い。 逆に先生方の目線からすると、意外にも講義自体の負担はそこまで大きくないのではないか。教える授業回数が多いわけではない(完全座学の聞くだけ講義は1モジュール3~4回ぐらい)し、スライドも多くない。グループディスカッションは事前に論点を提示するが、 先生はあくまでガイド...

あと二ヶ月弱で授業が終わる

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来年1月から始まる最後のセメスターは修論執筆なので、実質的に最後の授業となる年内のモジュールのスケジュールが今日発表された。昨年同様12月のクリスマス前までかと思っていたら、なんと11月末まで。つまり、もうあと2ヶ月弱ですべての授業が終わってしまうということ…!先日修士二年目が始まったと思ったのに。早い。早すぎる。 今のモジュールは先行研究のレビューなので個人ワークが多く、もっぱら図書館にこもっている。一方次のモジュールはMethodology(計量・定性共に)でレクチャーが多く、詰め込んだスケジュールのため毎日教室に行く週もあるようだ。いよいよ修論執筆に向けて最期のピース。 これまでこの分野の基礎理論・関連分野、先行研究のレビューの仕方、基本的な計量調査について学んできて、今はシステマチックレビューと、応答論文の書き方をやっている。文章も2000ワードから始めて、3000、4000、5000、8000とバリエーションを書き分けてきた。最後にこの分野でよく使われる研究手法を応用編で詰め込み、そして修論に昇華させる。着実にステップアップ出来るようよく練られたコース設計で、逆に言えば既に一通りの基礎がある人には物足りないかもしれないが、欧米ベースの学問的な基礎を身に付けたい私には本当に合っていた。入学前にシラバスを読んだときにここまでわかっていたわけではないので、つくづく私は運が良いし、カリキュラムとの相性は大事だと思う。 早くまた第一線に戻って働きたい反面、この貴重な時間や空間からまだ離れたくもないなあ。時間があるうちに、どんどんお気に入りの図書館スペースへ行こうと思う。

卒業後の進路トークとZ世代クラスメイト達の世界観

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修士2年目になると、皆の関心事は次の進路。日本のように時期がきたら一斉に就活をして(あるいは研究志望の人は大学院の入試を受けて)、という環境ではないので、必然的に最近クラスメイトと集まったときはもっぱら進路の話題になる。一括りにしてしまえばZ世代なのだけれど、バックグラウンドによって様相は多種多様だなあと思う。 最も悲観的なのがアメリカ人のクラスメイト。彼女は米国で2年間働いたけど、成功への絶え間ないプレッシャーにburn outして休憩も兼ねてスウェーデンに来たと言っていた。がむしゃらに働いてもいつ首を切られるかわからなくて、そしてそうしてまで働いても市内のそれなりの場所に家を買うのも無理な社会って、と(注:彼女はDC出身)。来年に迫った大統領選も眺めながら、彼女はものすごく社会を斜めに見ている、というか基本諦めている。彼女は人種的マイノリティなのでなおさらなのだろうとは思う。今アメリカに戻る気持ちにはなれないけれど、かといってスウェーデンでもない。属する社会を見つけきれずにもがいている。 それに対して特にドイツやスウェーデンの子たちは、自分達が母国で良い仕事に就き社会を変えていくことをあまり疑っていない。アメリカ人のクラスメイトはそういう無邪気さに対してものすごくシニカルに見ていて、たまに授業でもヒヤッとするコメントをする。自分事としての問題意識を向ける対象やベースとしての世界観がだいぶ違う、というのは傍で聞いていても感じる。 その子たちもプレッシャーはないわけではない。特にドイツのクラスメイト達は大学を卒業するまでに強烈なプレッシャーを潜り抜けてきている。ただ、そこを越えるとまだ一旦は自己実現を優先できるようなメンタリティ。自分が就職できない、あるいは働いても安定した暮らしを得られず社会の中で取り残されていくリスクよりも、気候変動によって近い将来生活環境が激変することによる影響の方をリアリティのあるリスクとして懸念している。自然災害の増加、食料危機、エネルギー危機、それによって産業構造がガラッと変わって、自分自身が生きる環境が成り立たなくなることに対する恐怖心。だからこそ現状を優先する「逃げ切り世代」に厳しい目を向けているし、構造的に変化しなければ、自分はそういう仕事をしたい、と思っている。 とはいえドイツにしても足元でこれまでは普通の暮らしをおくれていたのに...

仲間内で称え合うSNS世代のクラスメイトたち

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新学期初のアサインメントとして、ディスカッションがあった。予め指定の文献を読み込み、内容についてディスカッションするもの。そのディスカッションの様子がとても興味深かったし現代的だと思ったので、シェアしておきたい。 必修なので全員履修するのだが、人数が多いので、午前午後の2つスロットが提示され、自分でポータルから希望のスロットを選ぶことになっていた。私がポータルにアクセスしたときはまだ誰も登録しておらず(他の参加メンバーも見れる)、早々に登録した後は気にしていなかったら、蓋を開けてみたら大陸欧州勢+その他に綺麗に別れていて、私は大陸欧州勢の方だった。これまでにも何度かディスカッションのアサインメントはあったが、私以外全員が大陸欧州勢という経験は初めてで、その他の子達がいたこれまでのディスカッションとの議論の仕方の違いに改めて驚かされたのだ。 とにかく、お互いの称え合いがすごい。 建設的に議論をすることが求められるので、「Aさんの意見に〇〇の部分で賛成するが、△△という観点も必要ではないか」みたいな議論になるのだが、実際にクラスメイトがどう議論を重ねていくかというと、「Aさんの意見はとてもシャープで素晴らしく、特に〇〇の部分に賛成する。一方で△△について…」とか、「Bさんはいつも的を射た指摘をして学びがある、△△は著者すらも無自覚な観点だと思う。もし追加のコメントが許されるなら、私としては××…」などなど。一人が話している間の合いの手というか、「確かに!」「You're so smart!」みたいなのもすごい。たまに差し込まれるなら勿論良いのだけど、どんどんお互いへの賛辞を入れ込んでインフレしていくので、私としてはお腹がいっぱいになってしまった。AさんやBさんが素晴らしいのはわかったけど、時間制限のあるアカデミックな議論の場だし、公開シンポジウムなどでなくお互いによく知っているクラスメイト内での授業での議論なのだし、もう少しストレートに内容の議論に入っても良いのでは!? 日本でも相手を否定しないように気を遣う文化は強いし、相手の意見を尊重していることを明示的に伝えるのは言語や若い世代に限らない議論のテクニックではあるのだが、なんというか、わざとらしさと仰々しさ、それからその対象が意見ではなくその人個人に向けられていることも多い、という点において(私にとっては)更...

新学期

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月曜日から新学期(と同時に二年目)が始まるのでスウェーデンに戻ってきた。 約3か月ぶりに戻ってきた空港は新学期を前に混雑していて、市内へ向かうバスには「これから新生活かな?」と思われる留学生も沢山。去年ワクワクとドキドキを抱えて降り立った自分を思い出した。 去年降り立った時は家探しが難航していて、とりあえず当面の滞在先はairbnbで抑えてはいたものの、そもそも生活の立ち上げがどうなるか、という感じだった。二桁年ぶりの学生生活よりもそちらの方が懸念材料だったくらい(苦笑) 今年は既に帰る部屋もあり、夏の間に修繕が終わったり新しくオープンしたお店に車窓から気付けるくらい景色は肌に馴染み、「ただいま」と思える。 改めて1年経ったんだなあ。 2年目は修論に向けた準備と、修論の執筆がメインになる。 ようやく公開された最初のモジュールのシラバス(授業開始1週間前に公開なのでいつも遅い)を読んでみたら、専攻分野における代表的な調査手法、学問の系譜、先行研究のレビューのポイント、ジャーナルへの投稿、自分の研究成果の学問的貢献をどのように考えるかなどが体系的に学べる組み立てになっていて、とてもありがたいし、楽しみ。 私は日本で修士号は持っているけれど学際的な分野(公共政策)だったこともあり、こういう形で分野全体を見渡しながらお作法を学ぶということはしなかった。自らの関心に近い領域をそれぞれの手法で掘り下げる、という感じ。英文ジャーナルも縁がなかった。 自分の問題意識を研究として形にする基礎的な訓練という意味で修士課程っぽいし、こういう訓練を英語でしていない私はやっぱり修士課程が必要だったな、と。既に修士号を持っているのと、年齢、実務経験を考えて博士課程に行きたかったけれど、急がば回れで結果的に良かった。私の場合問題意識だけはきちんとあるので、土台が整えばむしろ実際の研究は後から付いてくるだろう。 夏休みたっぷり充電したので早く授業始まらないかな!とワクワクする気持ちでいっぱい。

初年度最後の授業

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 今日が初年度(M1)最後の授業の日。 まだ最終課題とその発表のセミナーが6月上旬にあり、そのセミナーが本当の意味での最後の授業ではあるのだけども、とりあえずインプットの授業としてはラストなので、昨年8月末からの日々に思いを馳せてはしみじみしていたところだった。 が、朝になって連絡があり、 休講 。 先生の体調が悪いとのこと。いや体調が悪ければ休んで頂いた方が良いのだが、いかんせんそんな性質の特別な授業だったので、ガクッ!である。代講があるのかがわからないので、なんとも尻切れトンボになってしまった。 とはいえ良い区切りなので一旦書いておきたい。 このところ北国も急速に春めいて、昼は芝生でゴロゴロしながら文献を読めるような気候になった。つい先日までダウンコートで、そのまた数週間前にはまだ雪が降っていて、その数週間前は15時には日が暮れていたのに。もう既に20時頃まで明るい。 6月上旬にセミナーが終わったら一旦ベルリンに戻る。再びここに戻ってくるのは8月下旬。その頃にはもう長袖だ。まだダウンではないけれど、羽織りものは必須、もうサンダルはちょっと難しい、そんな気候。夏は短い、とても短い。そして2年目が始まる。 あっという間だったな。 進学した際はどうなることやら全く想像がつかなかったけれど、総じて良いM1だったと思う。授業はどのモジュールもとても知的刺激に満ちていて、無駄に感じるモジュールは私にはなかった。仕事してきた分野と専攻が重なっていることもあって、まったく新しい知識こそ少なかったものの、仕事や実体験を通じて色々と散らばっていた知識や感覚を一旦取り出して、基礎文献や英語圏の学問の系譜に沿って整理し直し、丁寧にインデックスをつけ直したような感覚。なのでいわゆるAHAモーメントは結構あった。「こういう風に説明できるのか!」「彼らはこういう風に理解するのか!」と。インプットした文献は約9ヶ月で約300本/冊。多いのか少ないのかはよくわからない。もっと読めるとは思うけれど、基本的に骨子を写経しながら自分に浸透させて読んだので、自分としては使いこなせるまで読むにはこの分量が適量だったかなと思う。まだまだ知らないこと・わからないことは山ほどあるし、社会も動いているので常に課題は生じているけれども、同時に学問という物差しの一端を手に入れたことで、自分が何がわかっていて何...

学生のChatGPTを始めとするAIの利用をどう考えるか(スウェーデンの私の所属している研究科の場合)

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今日はChatGPT、あるいはAIと学業について。 日本では4月から新学期が始まり、と同時に大学や先生方がAIの利用をどう扱うか、ルールや見解を示されている。全体的な指針を示した大学、ゼミにおいては試験後に面談を実施して本人の理解度を確認する機会を設ける先生等、過渡期だけに各大学や先生方の試行錯誤が伺える。 さてスウェーデンの私の通う大学(修士)ではどうか? 結論から言うと、 明文化されたルールは今のところ何もない。 元々剽窃のチェックは外部提携サービスを通じて実施しており、それ以上のガイダンスは今のところない。ChatGPTがこれだけ話題になって以降に提出〆切があったエッセイもあるが、特段の指示はなく、生徒個人の裁量に任せられている。もっとも、それは院生だからで、学部では行われている可能性もある。私の所属する専攻と、大学のホームページを見る限りの情報だ。 実際、とある社会科学の先生は授業中にChatGPTの使用経験を問い、「まだ使ってない人はどんどん使いなさい」「間違った答えも多いので、何が間違いが指摘できるようになることは授業のゴールとも一致する」とのことだった。 以前〆切に対する価値観の違いについてブログを書いた が、この点においても日本との違いを感じる。それは1つは価値観の違いであるし、もう1つは大学のシステムと、教員と生徒の関係による違いなのではないかと思う。 価値観の違い 1つは倫理観は誰が決めるのか、という問題に対する価値観。 研究倫理を遵守することは学生たりとも例外ではなく、剽窃は論外として、倫理観を持ち、その倫理観に基づいて適切に行動することも求められているが、先生方は良くも悪くも一人の大人としての生徒の自主性を尊重している。最低限の倫理は別として、個別具体的な項目は示されていない。そして現段階ではChatGPT(や他のAIを活用したサービス)の利用自体をもって研究倫理違反とするまでは至っていない(今後はわからないが)。 4月23日付のNew York Timesに掲載された" It's not the End of Work. It's the End of Boring Work. "というコーネル大の歴史学の先生によるゲストエッセイで、実証研究に必要なプログラミング等の作業をChatGPTに作業させることで...

米欧中心の学問領域で多様性を叫ぶ

先日ダートマス大学の堀内教授が非常に示唆的な ツイート をされていた。 論文の掲載に至るまでの長い道のりで、「何故日本?Why Japan?」という査読コメントに何度も答える必要があったこと。アメリカの研究者はWhy USと聞かれるか?と。 私はまだ学術誌に論文を投稿したことはないが、日頃の教室でも同じような感想を抱いているので、今日はその点について。 私が今学んでいる領域(Political Communication)も圧倒的に米欧(欧の中でもギャップがある)を中心に発展してきた学問で、授業で扱うような基礎文献は今のところ100%米国・西欧。比較分析の論文を読むこともあり、そこではEU加盟国を中心に東欧にスコープが広がっていたり、あるいは脅威として権威主義国家の議論が出てきたりするが、それ以外の文脈でアジア、アフリカ、南米、アラブ圏が出てくることはほとんどない。 授業でディスカッションをする際、このあまりにもWestern Centricな世界観に時折クラクラすることがある。先行研究を批判的に検証する際に、生徒同士の議論全体もあまりにも無自覚に自分たちの社会システムや文化、それもいわゆる「エリート層」の価値観を所与のものとしているきらいがあるからだ。クラスメイトの大半はまだ20代だし、大学院に進学するような子達なので仕方がない部分もあるものの、これだけ社会が分断されているにも関わらず、彼らにとって非西欧圏は報道で見る世界であって、肌触りのあるリアルじゃないんだなと。 『公研』2022年12月号の対談 で、岩間陽子・政策研究大学院大学教授と池内恵・東京大学教授が世界をメインストリームとローカル線にたとえた上で、「世界の大部分はローカル線」(池内先生)であるにも関わらず「新幹線に乗っている人たちはローカル線の知識がない」(岩間先生)「知らなくても生きていけるし、役に立たないと思っている」(池内先生)点を議論されていたが、将来エリートとして社会を引っ張っていくであろうクラスメイトが、まさにそうなのである。 この論点はさすがに違う視点が必要では、と思う際には非西欧的意見を入れ込むけれど、ディスカッションの流れを崩さないように短く終えるよう意識しすぎると、周りにあまりにもバックグラウンド知識がないので、なぜその発言をしたのか意図が伝わらないし内容も理解してもらえない。つま...

上手なフィードバックとは

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 寒の戻りでモサモサと雪の降る中、論文レビューのグループワークへ。 それぞれに 先行研究のまとめを書く 過程で、 5名のグループ 内でお互いに途中経過の原稿に対してフィードバックをしあうセッションがあったのだ。建設的なコメントをする練習をすることで、客観的に自身の執筆を振り返ると共に、査読の練習も兼ねている(最後に完成版に対しても担当が割り当てられ、レビューをしないといけない)。 実のところ、仕事でさんざんフィードバックをしてきたので、楽勝でしょうと思っていた。が、 そうでもなかった! 仕事では書き手とゴールを共有しており、そのゴールに向けた資料として果たして適切かを確認するのに対して、違う分野で違うトピックスを扱う人の先行研究のまとめにコメントするというのは、ゴールも基礎知識も共有していない状態でアカデミックな論文の冒頭部分として機能するかを確認する作業になる。論理展開のスムースさやテクニカルな部分などは勿論コメントできるにしても、そもそもこの問いの立て方が適切なのか、どういう切り口が望ましいのか、果たしてどこまでが共通認識と考えて良いのか、私が理解できないのは単に基礎知識が足りないからなのか等難しい。 そんなわけで色々と頭を悩ませながらフィードバックをしたので、他人のフィードバックの様子を聞くのは非常に勉強になった。チームメイトが多様なだけあって、スタイルもそれぞれ。 中でも感心したのは20代半ばのドイツ人の子。彼女は職務経験があるのだが、入社した時から部下持ちだった(ドイツでは大学を出て専門ど真ん中な職務に就く場合、いきなり高卒スタッフなどをまとめるポジションに就くこともある。)だけあり、フレンドリーに執筆者の意図を引き出すのが本当にお見事。彼女のフィードバックというより質問に乗せられて執筆者がベラベラと話すと、周りも「それ、それ書きなよ」「それ今の文章だと伝わってないよ」と言う感じで、本人が自ら方針に到達できるよう上手く誘導していた。 対照的に元政府高官だったクラスメイトは指摘は的確なのだが、命令口調で厳しい(笑)本国ではきっと一言いえば周りが意を察して動いていたのだろう。フィードバックされた側はちょっとムッとしていた。それでも他人からのフィードバックを受け止めるという点に関しては、芯はあり反論しつつも素晴らしく柔軟で、さすが学びに来ているだけあるな...

冒険する力と纏める力

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今モジュール後半は各自が選んだテーマについての先行研究のレビュー。それぞれ指導教官がアサインされ(正味1ヶ月なので指導教官というほどでもないけれど)、レビューを書く過程に対して指導を受けることができる。 第1段階はリサーチクエスチョンと骨子、予定文献リストを1ページ強相当にまとめたものを提出し、それに対してフィードバックが来る。 私の担当はとても良い人だけどリラックス気味な先生になった。ドキドキしてフィードバックを待っていたところ、 「とても良いテーマだし何を書けばよいかわかっているみたいだから、このまま進めて、頑張って!」で以上終了… ん、それだけ? いや修士ともなれば基本自分で進めないといけないものだし、提出した計画と骨子が薄くてコメントする程でもなかったのかもしれないので、次のフィードバックに向けて淡々と進めるしかないのだけど(次は来週、それまでに2000ワード程度まで書きすすめる)。 他もこんな感じなのだろうかとWhatsAppで他のクラスメイトの状況を聞いてみたところ、先生によって多少違いはあるが、論点に関するアドバイスや、逆に参照すべき論文やモデル、観点などフィードバックをもらっている生徒が多い。う、羨ましい…私もsubstantialなアドバイスが欲しい… と臍を噛みながら(大袈裟)、ふと自分の取組み方にも課題があるのかもしれないな、とも思った。 実はこれまで提出したエッセイも事後に評価コメントが返ってきたのだが、質的な意味でのフィードバックがとても少ないのが若干不満だった。いや日本だと採点結果しかわからないので、単なるエッセイにコメント貰えるだけで良いのかもしれないが。基本的には褒めて終わり。褒められるのは嬉しいし、実際例えば構成を褒められればこの方法で良かったんだなとか追認の意味で学びはあったのだが、進化するために、もう少し踏み込んだコメントが欲しいなと思っていたのだ。なので実は今回のフィードバックを繰り返しながら執筆する授業形態は密かに楽しみにしていた。 ところが実質フィードバックと言えるものが何もなかった。今の段階で何か根幹的なことを言うほどのアラがなかったのだろうが、裏返せば私の場合最初から現実的に纏めることを想定して組み立てており(落とし所を考えながら組み立てているとも言う)、あまり冒険していない、ということが背景にあるのだろうとも思い至っ...

異なる視点から

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試験が終わったと思ったら間髪入れずにモジュールの後半が始まった。 後半は前半で扱った領域から掘り下げたいテーマを決め、約一ヶ月で先行研究のレビューをする。 最初は骨子を提出し、三段階で途中先生による個人指導やグループでの評論会を挟んで3月末までに文章に仕上げ、最後はプレゼンテーション。 今日はアサインされたグループで初ミーティングだった。 皆違う専攻から来ているのでバックグラウンドも関心範囲も多様。EU専攻のジョージア人(なんと進学する前は相当ハイランクの政府高官だったそうで、いずれ来るEU加盟に備えて学んでいるとのこと)、社会科学専攻のフランス人(移民背景があり、特にファッション業界におけるポストコロニアリズムと白人至上主義に関心があるそう。めちゃくちゃオシャレ)、ジェンダー専攻のイタリア人(マーケティングの仕事をしていてジェンダーに関心を持ち、キャリアを深めようと進学したそう)。 前半はインプット中心だったので、クラスメイトとこういう話をする機会がなかった。こういう機会は留学の醍醐味でもある。 ただあまりに多様なので、前提知識が違いすぎて皆それぞれどんな論文にしようか話す際にはなかなか理解が大変だった😅 私はフェイクニュースやミスインフォ、ディスインフォを掘り下げようかなと文献のザッピングを開始した。フェイクニュースもミスインフォもディスインフォも無くならないことを前提に、情報リスクに対してレジリエントな社会とはどういう社会だろうか、ということを考えようかなと思っている。 最後は特定のクラスメイトが割り当てられ、論文の評価もすることになっている(査読の練習の観点から)。実はクラスメイトのエッセイを読む機会はなかなかないので、これも楽しみ。