Where are you REALLY from? マイクロアグレッションか、相互理解のための糸口か

今モジュールには一学年上の生徒も参加している。本来は昨年卒業すべきだったが、最後のモジュールと修論だけ残して卒業を遅らせたそう。ランチを食べながら自己紹介タイムになった。

「どこから来たの?(Where are you from?)」

と彼女が聞く。中華系アメリカ人のクラスメイトが「米国」と応えると、彼女はくい下がった。

「本当はどこから来たの?(Yeah, but where are you REALLY from?)」

あ、まずいな、と思った。
こういう問題に馴染みのある人はすぐピンとくると思うが、これは典型的なマイクロアグレッションである。クラスメイトは外見はアジア人だが米国で生まれ育った移民二世。

「だからアメリカよ」

繰り返すクラスメイトに彼女は引き下がらない。

「あなたはアジア人なのかと思って」

「人種はそうだけど、私はアメリカ人だから」

違うクラスメイトが割って入り、人種と国籍は違う可能性があること、特にしつこく聞くことはマイクロアグレッションにあたり適切ではないことを説明した。それに対して彼女はこうコメントした。彼女はナイジェリア人の移民一世だ。

「私は別に差別じゃないと思う。私はブラックであることは外見的にも明らか。でも同じブラックでもルーツは色々で、きちんと知らないと相手を理解できないので、必ずルーツも育ちも聞く。同じブラックでもアメリカのブラックとアフリカのブラックは全然違うから。同じようにアジア人か、と聞くのは差別じゃなくて、むしろ相互理解のための質問だ。」

それを聞いて、移民一世と二世の間の感覚的隔たりを改めて考えてしまった。



私自身は婚姻により外国姓を名乗っているが、アイデンティティとしては日本人の移民一世なので、実際質問をされても特に傷付かないし、何の問題もなく「日本人」と答えるだろう。

しかしクラスメイトのような二世にとっては、人種的ルーツは例え外見的に明らかであったとしても、文化的にはちょっと距離がある。映画Crazy Asian Richで外側はアジア人だけれど中身は白人(Asian outside, white inside)である主人公のことを"banana"と形容していたが、クラスメイトはまさにそれ。中国語は一切話せないし、立ち振る舞いも思考回路も完全にアメリカ人だ。好物はマッケンチーズ。それでも外見故に完全には仲間扱いされない、そういう見えない壁と人生ずーっと付き合ってきて、構造的差別を撲滅するための政治活動もしている。

一世の彼女は「自分がマイノリティだからこそ、同じような経験をしている人にはその話を聞きたい」とも言っていたが、一世の彼女が見ている世界と、二世のクラスメイトが見ている世界は全く違う。

ふと、マジョリティがマイノリティに対してルーツを聞くことに対しては、社会構造における権力勾配が明らかであるが故に、何故それが差別にあたるのか整理されているけれど(いつまでも余所者として扱い社会統合integrationを無視していること等)、同じマイノリティ同士という場合にどう考えるのが良いのか、あるいは一世が二世のアイデンティティをどう受け止めるべきなのか、というのはわかりにくいな、と思った。

一世が非マジョリティとして質問するとき、実際にそこに構造的差別や差別意識はない可能性もあるのだろう。特にルーツを共有する人には連帯意識を持っていて、だからこそ無邪気に聞くし、それは無意識の差別だと言われても違和感があるんだろうな、と。でも実際のところ、誰が言うか、そしてそのコメントに差別意識があったかどうかはあまり関係なく、受け手個人がどう受け止めるか、だ。特にマイクロアグレッションはダメージが累積する。相手が二世であれば特にその点が問題になる。帰化した一世の方なんかでもそうだろう。

結局のところ、個人のプライバシーや境界boundaryを尊重する、という観点に立ち返るしかないのかな、と思うなどした。相手が国籍までしか明らかにせず、そこで話を止めるなら、こちらがそれ以上踏み込むのは境界を侵しており望ましくない。本人が話したいと思ったときに聞くべき話であって、強制するものではない、という基本に立ち返るしかない。信頼関係が出来てくれば、その先の会話もできるだろう。

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