「問い」の立て方と学術論文の価値

M2の中心は勿論、修論である。

正直、悩んでいる。もっというと、苦戦している。

テーマそのものというよりも、問いの設定に。

元々課題意識があり進学した。私は現場(日本)が長かったので、課題意識はどちらかというと現場での課題感を出発点に、その解決を探す過程で芋づる式に発展させてきた。加えて実務畑&コンサルなので、今の日本を見て例えば諸外国のこういう部分の先行事例が知りたいなとか、こういう場合はどうしているんだろうかとか、逆に現地に暮らしていてここどうなってるんだろうとか、そういうタネはいっぱいあるし、これまでも実態調査は数多くしてきた。けれど。

単に調べてまとめたり、そこから日本への示唆を抽出したところで、それはコンサルの調査報告書であって、学術論文ではない。

学術論文には、学問的な貢献が求められる。アカデミアの大きな理論の流れを踏まえつつ、自らの問題意識をその文脈に位置付け、理論を実証的に検証するのか、理論がカバーしていないと思われる領域を開拓するのか、とにかく論文の貢献する価値や意味について、社会的意義だけでなく、学問上の意義についても、彼らの言葉(単に言語という意味だけでなく)で明らかにする必要がある。そしてそのためにはアカデミアの議論の把握だけでなく、全体を導く適切な「問い」が必要だ。

で、私はまだまだ英語圏のアカデミアでの文脈での問いを立てる訓練が足りていないなあと痛感する。

先日は先行研究のシステマチックレビューの課題があったのだが、先生からのフィードバックは「レビュー自体は非常に高い水準だが、問いはまだまだシャープに出来る。特にDiscussionで示す次の研究に導く新たな問いは、normativeなだけでなく、empiricalな検証が出来るレベルの「問い」まで落とすように」と戻ってきた。要は「問いがまだ大きすぎる」。別の先生からも「捨てる勇気を持ちなさい」と言われたこともある。

他の機会でも言われたのが、引用してもらえるのはメッセージがクリアでシャープな論文、エレベーターピッチのメッセージを考えて、そこから問いに戻せ、と。テーマは複雑で当たり前、論文は何本書いても良い、1本で収める必要はない、だから1本に入れ込もうとしすぎるな、と。実際エッセイを書いていても、主張がハッキリした論文は引用しやすい。

ということは頭ではわかっているのだが。
色々思考錯誤していて、この「色々書いておきたくなる症候群」は、元役人というのも影響しているのかもしれない、と思うようになった。とにかく文章を書いていて、予想できる論点や反論がある場合、「わかってますよ~」と予防線を張っておきたくなる。先生曰く、複雑な事象を複雑なまま議論したいのはわかるし、予防線を張るのは当然必要だが、張りすぎるな、と。むしろ反応・反論してもらえれば御の字で、待ってましたと指摘を踏まえて次の論文を書けば良い、黙殺が一番怖いと。

書いた論文が日の目を見て引用される→それが評価に直結する現実を考えるとそうだなあ、と。本当に先生方は非主流(要は非英米)からアカデミアでどう生き残っていくか、成果を出していくか、を相当戦略的に考えている。

学術論文って難しい。が、頑張らねばならぬ。土俵が変われば求められることも当然変わるのだ。



コメント

このブログの人気の投稿

卒業後の進路トークとZ世代クラスメイト達の世界観

年上の心得

仲間内で称え合うSNS世代のクラスメイトたち