冒険する力と纏める力

今モジュール後半は各自が選んだテーマについての先行研究のレビュー。それぞれ指導教官がアサインされ(正味1ヶ月なので指導教官というほどでもないけれど)、レビューを書く過程に対して指導を受けることができる。第1段階はリサーチクエスチョンと骨子、予定文献リストを1ページ強相当にまとめたものを提出し、それに対してフィードバックが来る。

私の担当はとても良い人だけどリラックス気味な先生になった。ドキドキしてフィードバックを待っていたところ、「とても良いテーマだし何を書けばよいかわかっているみたいだから、このまま進めて、頑張って!」で以上終了…

ん、それだけ?

いや修士ともなれば基本自分で進めないといけないものだし、提出した計画と骨子が薄くてコメントする程でもなかったのかもしれないので、次のフィードバックに向けて淡々と進めるしかないのだけど(次は来週、それまでに2000ワード程度まで書きすすめる)。

他もこんな感じなのだろうかとWhatsAppで他のクラスメイトの状況を聞いてみたところ、先生によって多少違いはあるが、論点に関するアドバイスや、逆に参照すべき論文やモデル、観点などフィードバックをもらっている生徒が多い。う、羨ましい…私もsubstantialなアドバイスが欲しい…

と臍を噛みながら(大袈裟)、ふと自分の取組み方にも課題があるのかもしれないな、とも思った。

実はこれまで提出したエッセイも事後に評価コメントが返ってきたのだが、質的な意味でのフィードバックがとても少ないのが若干不満だった。いや日本だと採点結果しかわからないので、単なるエッセイにコメント貰えるだけで良いのかもしれないが。基本的には褒めて終わり。褒められるのは嬉しいし、実際例えば構成を褒められればこの方法で良かったんだなとか追認の意味で学びはあったのだが、進化するために、もう少し踏み込んだコメントが欲しいなと思っていたのだ。なので実は今回のフィードバックを繰り返しながら執筆する授業形態は密かに楽しみにしていた。

ところが実質フィードバックと言えるものが何もなかった。今の段階で何か根幹的なことを言うほどのアラがなかったのだろうが、裏返せば私の場合最初から現実的に纏めることを想定して組み立てており(落とし所を考えながら組み立てているとも言う)、あまり冒険していない、ということが背景にあるのだろうとも思い至った。

私が執筆系の課題をどういう風に進めるかというと、最初に興味関心があるテーマを立て(指示される場合もある)、そこから文献をザッピングしつつ〆切までの期間やワード数から逆算して手に負えそう、かつ多少はオリジナリティが発揮できそうな範囲の題材に構成からまとめ、各段落のポイントと論理展開、予想される結論を骨子に書く。本文は基本的に骨子に肉付けしていく。必要そうな文献はとりあえず幅広にリストアップし、概要を読んだ上でどこの部分に使おうかを想定し、必要なくなればそこから削除していく形式を取っている。
つまり、構成の段階で予めまとめられそうな題材と骨子に収斂させている(もちろん文献を精読する過程で新たな発見があったり仮説が間違っていたりして骨子を修正することはある)。

対照的に、クラスメイトと話すと「これに興味がある!」というテーマに果敢に挑み、「ええ〜それはもう少し絞らないと無理じゃないかな?」「それどういう切り口で料理するの?」みたいな大上段のテーマで殴りかかってくる。文献も掲げていても、それだけでその問題を論じるのは無理では?みたいなことも。言うなれば私が弓を引き絞っているのに対し、棍棒を振り回しているみたいな感じ。でもそういう荒削りの問題意識は時に本質をついていて、非常に面白い。わからないから知りたいという知的好奇心に非常に忠実で、感性がシャープだなと思うことも。
だからこそ、先生方からはその論点は云々とか、こういう文献も読めとかフィードバックがあるのだろう。

せっかく学生なのでそういうほうが楽しいよなあ。何となく役人やコンサル時代のクセというか、常に出口を考えながら限られた時間や予算の中で形にしていく、というのが身に染みついてしまっているのだけれど、せっかく今は自由に学べる期間なのだし、今はもう少し思考を拡散しても良いのかもしれない。そうしないと私自身の狭い視野と既存の思考で纏められる枠内にしか留まれない。今私に必要なのは一旦枠を取っ払い、自分の知的限界に挑む拡散のプロセスのような気がする。

とそんなことを思ったのでした。

こんな感じに見えていたら嫌だな…

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