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「気が合う仲間たち」と排除の間のデリケートな線引き

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ずっと、書いては消し、書いては消し…を繰り返していたテーマが1つ。 大陸欧州出身のクラスメイトたちと、それ以外のクラスメイトたちの間の関係性について(私のクラスは全体で18名ほど、そのうち大陸欧州とスウェーデン出身の子が2/3、その他が1/3というところ)。 事の発端は入学直後、初めてのグループワークのグループメンバー決めの時。 シラバスでグループワークがあるということは把握していたのだが、実際に課題の説明を聞いてからグループを組もうと思っていたら、肝心の説明の日には声をかけた周りの席の子の多くが既にグループを結成していて、断られてしまった。最初私は年齢が上だから、若い子たち同士でもう組んでいたのかな?と思ったけれど、声をかけていくうちに、実はブラジルや中国やバングラ出身の子らは誰とも組んでおらず(そしてこの子達と組んだ)、大陸欧州とスウェーデン出身の子たちだけが早々と彼らの中で組んでいたことを知った。学年のWhatsAppグループ上では何の素振りもなし。その他勢は「えっ、いつの間に?」状態。グループワークは採点の対象なので、感覚が近しい子達で早々に組んで合意したのだろう。根回しに驚くと共に、あまりにも綺麗に分かれたので、割と意識が高い集団でも(だからこそ?)何も手を入れないとそうなるんだなあ、と興味深く思った。 ランチタイムは当初はグループに関係なく皆で食べたり、グループチャットにはfikaや飲みのお誘いなどがポストされていたが、早々に「大陸欧州勢」と「その他勢」、という大きな構造に分化。1ヶ月も経たないうちにランチは大体同じ顔触れになり、チャットにお誘いは流れなくなった。そのまま定着するかと思われたが、2ヶ月ほど経った頃、大陸欧州勢の中から何人かが分離する形でクラスのダイナミクスが少し変化。有体に言えば、大陸欧州の子達のうち、割と目立つ感じの子達から、大人しめの子達が分離した。 私は基本「その他勢」と仲良くすることが多いものの、年齢や経験もあって大陸欧州勢からも一目置かれるポジションを構築し、彼らが騒ぐパーティーに呼ばれるような事はないけど、個別にfikaに誘われたり、グループワークでもたまに組むこともある、という感じでグループ間を泳いでいた。でも私のように双方のグループと適度に付き合える人はものすごく限られていて、そこには明らかに、境界があった。 双方とも、ク

修士論文の「スウェーデン式」ディフェンス

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しばらくblogに触れないうちに修士論文を書き上げ、合格し、6月上旬に無事2年間のプログラムを修了。なんだか3月以降は風のように時間が飛び去ってしまった。これから幾つか振り返り投稿をしようと思うのだけれど、この投稿では修士では珍しいのでは?と思われる 修論のディフェンス (先生方曰く「スウェーデン式」)について書いておこうと思う。 「スウェーデン式」と言っても他の分野でも同様なのかは私にはわからないのだけれど、私が所属していた研究科では修士論文の審査は2段階で行われ、 ①審査担当の教官(指導教官以外、指名不可で研究科によってアサインされる)による審査 ②ディフェンスと呼ばれる討論会のような会、 の2つをパスする必要がある。 ディフェンス自体は次のような段取りで行われる: ―――― ・著者による口頭補足(マイナー修正のみ) ・対抗論者(クラスメイトがアサインされる)による論文の概要と強み弱みの説明、約10分 ・対抗論者による質疑(とそれに対する応答)、約20分 ・審査担当教官による質疑(とそれに対する応答)、約20分 ・参加者による質疑 ・全体講評 ―――― 博論のディフェンスを模倣したスタイルで、ただ時間制限がもっとずっと長い博論に対しトータル約1時間なのと、対抗論者(discussant)は外部の先生ではなく、クラスメイトが務める。指導教官は参加しない。 基本クローズドの口頭試問とは異なり、研究科内の人間は参加可能なオープン形式で、論文の概要説明もあるので、修論自体の知識の研究科内への還元と、対抗論者を務める生徒への教育効果も狙っているんだろうなあ、と。実際私自身クラスメイトの対抗論者を務めたが、自分が必ずしも明るくないテーマの60pを超える論文をフロアにわかるように要約・プレゼンし、建設的に質疑を組み立てるというのは結構骨が折れた。同時にクラスメイトの立論や質疑から学ぶことも多かった。 ディフェンスする側として感じた特徴は、自分で内容をプレゼンせずあくまで論文として書いたものを元に全て行われるので、文章の過不足を改めて自覚した、ということだろうか。特に対抗論者は先生ではないので、前提知識があるわけではなく、脳内補足して呼んでくれるということがない。なので質問を受けて「あ、こういう所が言葉足らずで伝わっていないんだな」などと気付くこともあった。 審査担当教官による

博士課程への出願

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博士課程への進学を希望しており、1月末に3つ応募期限のものがあるので、修論をとりあえず横に置いて、ひたすら研究計画書を書いている。1つは特定の先生の指導可否を仰ぐもので、もう2つは学科単位での一律応募。日本と違って学科試験はないのでとにかく研究計画書が勝負。 そんな時、X(旧Twitter)でとある著名な先生のポストが目に入ってきた。先生の専門分野に関係のない内容で留学を希望する学生から指導依頼が大量に入る、テーマが違うので指導できないと返したら、ではテーマを変更するので指定してくれ、と学生が言ったケースまである、とのこと。 先生を批判する気はない。専門分野が違うと指導を断るのは当然だろう。お忙しい中、そういうメールの数も多く、ご負担も多いのだろうとも思う。ただ、そのポストを起点にコンタクトしてきた学生の学問的不誠実さや失礼さを「学問を何だと思ってるんだ」とくさすような空気が形成され(私はそう感じた)、あげくに「単なるビザ目的では」みたいなコメントもつくのを見て、今修士課程で学び、博士課程を目指している人間として、ちょっと思うことを残しておきたくなった。 博士課程は自分で研究テーマ設定してマッチング先探して研究できる人しか採らないというのは、そういう構造なのでそれに文句言うつもりもない。私の通っている大学院のシステムもそうなっている。 ただ実際留学生として学生をしていると、その不均衡さに色々思うことはある。 2人、クラスメイトの話をしたい。 1人は今の大学院でPhD進学を希望している。今が2つ目の修士課程で、元々いた某国の修士課程(その国で上位層の大学)で学長賞を取るくらいの実力はある。自分の関心も研究したいテーマもある。ただ、関心が西欧的関心と若干ズレており、初留学でそこのアジャストが間に合ってない。 学問的関心を涵養してテーマに落とすまでには時間と訓練が必要だ。 私も正直出来ていなかった。この二年間で相当学んだ。とにかくその分野の論文を大量に読んでマッピングした上で、自分の関心をその学問の文脈の中に適切に位置付けないといけない。でも特に社会科学系の学問は学問のコンテクストだけでなく、社会のコンテクストに異存する部分もあるので、そのコンテクストを知らないと結構ハードルがある。私の関心も日本での問題意識から発生しているので、英語圏アカデミアの文脈に位置付けるのに結構

論文のバイアス

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研究論文の書き方について指導を受ける過程で、査読を通った(通るために最適化させた)論文のバイアスについては何度か言及があった。中でも言われたのが 「面白い結果が出なかった論文は採用されない(ので最初から書かない)」 ということだ。 特に計量分析においては、どんなに仮説が学説的にもっともらしかろうが、「検証してみたがダメだった」論文は、なにかしらそれを超える発見がないと難しい。結果、その部分は暗黙の了解となってしまう、という話。 これを聞いた時には正直「ふ~ん」と思っただけだったのだが、年をまたいで計量分析のアサインメントがあり、強烈な形で実感することになった。 修士のアサインメントなので事前に先生からは「きちんと先行研究の議論及び統計的思考に基づいてモデルをつくり、統計ソフトを正確に使って検証し、結果を適切に読み取れているかを見るので、新規性や独自性にこだわらなくてよい」「とにかくプロセスを丁寧に残すように」と言われていた。 私が取り組んだテーマは先行研究を見渡せば当然研究対象になっていても良さそうな重要なトピックなのに、まだ「これ!」という論文が出ていない。比較的新しく、近年研究が増えているテーマなので、これから出るのだろうか、と思いつつ研究科が持っているデータを用いて検証したところ、先行研究から論理的に導き出される仮説は否定されてしまった。 「なるほど、結果が出ないから論文になってないのか」 と納得し、私個人のアサインメントとしては、検証の結果仮説は否定された、という体裁のものになった(もう少しニュアンスはあるが)。なお途中で指導役の先生に相談する機会も設けられていたので、①先行研究の状況、②仮説の構築、②モデルと利用する変数を段階的に相談し、最終的に提出。 で、今日はそのペーパーをお互いに批評をしあうセミナーがあった。他の学生のペーパーが割り振られ、大体1本20~30分をかけてペーパーが検証している内容をリキャップし、疑問点や指摘などを著者にぶつけ議論していく。著者はディフェンスをし、あらかた議論が落ち着いたところでモデレート役の先生が講評、という流れ。 私のペーパーはクラスメイトからは特にさほど大きな指摘はなかったのだが、モデレーターの先生にとても不評で、結局やり直すことになった(指摘をふまえて修正する期間があり、最終提出したものが採点の対象となる)。ちなみ

修論の指導教官との初mtg

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さて、いよいよ修論。 私が在籍している研究科では、修論は最後のセメスターを丸々執筆に充てる。テーマは①研究科が提示するテーマ群、または②独自研究テーマから選ぶことができ、指導教官は研究科によってアサインされる。①にせよ②にせよ11月末までに修論の研究計画書を提出し(その際に一応指導教官の希望は書ける)、テーマや研究手法、それから全体のバランスや相性他諸々を見て、研究科によって指導教官と生徒の割り振りが決まる、というわけ。その後は先生と生徒の個人指導で執筆を進め、5月23&24日にディフェンスがある。 個人的には自分で指導教官を探し交渉を重ねるよりも合理的なシステムだと感じる。 1つはテーマ選び。 卒業後就職が前提で、面白い研究はしたいが特にテーマやアイディアへの強いこだわりがない学生(意外といる)や、予算がついている研究PJに関与したい人は①から選ぶことができるし、自分でやりたい人は②を選べる。①があることで、単純に研究の人手が欲しい先生と関心のある生徒のマッチングができるのでwin-winだ。 もう1つは指導教官選び。 特に②の場合は、先生方の「この分野やこの研究手法はこの先生が詳しい」という感覚に従うことができる。生徒側で全ての所属の先生方に対してこの肌感覚を持つのは難しい。あとは、やはり人間同士なのでどうしても相性もある。最終的に発表された指導教官と生徒の組み合わせ一覧を見ると、色々考慮した痕跡が見受けられ、収まるところに収まっている感じがした。これはアカデミックハラスメントを防ぐという意味でも重要。 私は②の独自テーマで、これまでに授業で教わったことはないが、自分の関心のある領域にドンピシャリの先生がいるので、その先生を希望した。一度修論に関係なく話を聞きに行ったことはあるもののそれっきりだったので、果たして引き受けてもらえるかは全く不透明だったが、無事希望通り決まり、キックオフZoomMTGを行うことができた。 冒頭「引き受けて下さってありがとうございます」と伝えたら、「自分も関心のあるテーマだからね!君から学ぶことを楽しみにしているよ、研究計画書も良く書けていたしね」と言ってくれ、即座に中身の話に入った。非常に生産的で、「弟子入り」という感覚が一番しっくり来るものだった。 実はこれまで書いた卒論も1回目の修士の修論も、ゼミや指導教官の専門分野と異なる分野

実践EBPMーー授業評価会議に参加してきた

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通っている大学院の授業は必ず授業評価があり、成績評価がつく前にオンラインで回答する。プラスして、科目ごとに4〜5年に一度大掛かりな評価が行われるそうだ。昨年受講した授業がちょうどそのタイミングにあたるそうで、生徒側として参加しないかと連絡が来た。授業の担当教員、ティーチングに携わっていない教員、生徒各2名で評価会議をするとのこと。 今日がその会議だったのだが、これが実践・EBPMという様相で(対象は政策ではないが)とても興味深く、約2時間半の会議があっという間であった。評価や大学運営に関心がある方向けのピンポイントな投稿になってしまうかもしれないが、以下ポイントをシェアしたい。 (1)資料・議題 事前に授業評価会議の資料が送られてきたのだが、シラバスや講義資料のほか、学生の匿名評価アンケート結果や過去5年間の成績分布、先生の自己評価表、改善案などがまとめられており、どれもものすごく興味深かった。単に現場感覚に基づく教員の主観的評価に留まらず、教育学の知見に基づいて実施した教育手法(例えば生徒同士のpeer learning、インセンティブ設計など)が実際に機能したかしなかったか、その判断の要因分析なども書いてあり、これ自体が巨大な実験と実験結果の論文みたいであった。 他にシラバスと実際の教育内容が本当に一致しているか、参考文献が質・量において適切か、成績評価方法が適切か・透明性が高いか、最終成績の分布と照らして難易度は妥当か、社会情勢の変化を踏まえて教育内容に変更が必要か、なども検討される。 これだけ労力をかけるのだからそりゃ4~5年に一度で、普段はアンケート結果に基づく小規模な見直しというのも納得。 (2)参加者と会議 コースコーディネーター、担当教員、同じ学部のシニア教員、高等教育論のポスドク、学生(私)の構成。評価と、評価を踏まえて何を変え何を維持するかが主な議題。シニア教授の方の経験論と、ポスドクの方の研究を踏まえたFBが素晴らしい相乗効果を発揮していた。 例えばリーディングの量が適切かという問いがあれば、 まず主任教員が生徒のアンケート結果と、自己の見解をコメント。 学生(私)が見解をコメント。 興味深かったのはポスドクの人のコメント。例えばデンマークでは単位数に応じて生徒に求められるリーディングの量が決まっており、それを超えるには学生組合と協議・合意する

Where are you REALLY from? マイクロアグレッションか、相互理解のための糸口か

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今モジュールには一学年上の生徒も参加している。本来は昨年卒業すべきだったが、最後のモジュールと修論だけ残して卒業を遅らせたそう。ランチを食べながら自己紹介タイムになった。 「どこから来たの?(Where are you from?)」 と彼女が聞く。中華系アメリカ人のクラスメイトが「米国」と応えると、彼女はくい下がった。 「本当はどこから来たの?(Yeah, but where are you REALLY from?)」 あ、まずいな、と思った。 こういう問題に馴染みのある人はすぐピンとくると思うが、これは典型的なマイクロアグレッションである。クラスメイトは外見はアジア人だが米国で生まれ育った移民二世。 「だからアメリカよ」 繰り返すクラスメイトに彼女は引き下がらない。 「あなたはアジア人なのかと思って」 「人種はそうだけど、私はアメリカ人だから」 違うクラスメイトが割って入り、人種と国籍は違う可能性があること、特にしつこく聞くことはマイクロアグレッションにあたり適切ではないことを説明した。それに対して彼女はこうコメントした。彼女はナイジェリア人の移民一世だ。 「私は別に差別じゃないと思う。私はブラックであることは外見的にも明らか。でも同じブラックでもルーツは色々で、きちんと知らないと相手を理解できないので、必ずルーツも育ちも聞く。同じブラックでもアメリカのブラックとアフリカのブラックは全然違うから。同じようにアジア人か、と聞くのは差別じゃなくて、むしろ相互理解のための質問だ。」 それを聞いて、移民一世と二世の間の感覚的隔たりを改めて考えてしまった。 私自身は婚姻により外国姓を名乗っているが、アイデンティティとしては日本人の移民一世なので、実際質問をされても特に傷付かないし、何の問題もなく「日本人」と答えるだろう。 しかしクラスメイトのような二世にとっては、人種的ルーツは例え外見的に明らかであったとしても、文化的にはちょっと距離がある。映画Crazy Asian Richで外側はアジア人だけれど中身は白人(Asian outside, white inside)である主人公のことを"banana"と形容していたが、クラスメイトはまさにそれ。中国語は一切話せないし、立ち振る舞いも思考回路も完全にアメリカ人だ。好物はマッケン