米欧中心の学問領域で多様性を叫ぶ
先日ダートマス大学の堀内教授が非常に示唆的な ツイート をされていた。 論文の掲載に至るまでの長い道のりで、「何故日本?Why Japan?」という査読コメントに何度も答える必要があったこと。アメリカの研究者はWhy USと聞かれるか?と。 私はまだ学術誌に論文を投稿したことはないが、日頃の教室でも同じような感想を抱いているので、今日はその点について。 私が今学んでいる領域(Political Communication)も圧倒的に米欧(欧の中でもギャップがある)を中心に発展してきた学問で、授業で扱うような基礎文献は今のところ100%米国・西欧。比較分析の論文を読むこともあり、そこではEU加盟国を中心に東欧にスコープが広がっていたり、あるいは脅威として権威主義国家の議論が出てきたりするが、それ以外の文脈でアジア、アフリカ、南米、アラブ圏が出てくることはほとんどない。 授業でディスカッションをする際、このあまりにもWestern Centricな世界観に時折クラクラすることがある。先行研究を批判的に検証する際に、生徒同士の議論全体もあまりにも無自覚に自分たちの社会システムや文化、それもいわゆる「エリート層」の価値観を所与のものとしているきらいがあるからだ。クラスメイトの大半はまだ20代だし、大学院に進学するような子達なので仕方がない部分もあるものの、これだけ社会が分断されているにも関わらず、彼らにとって非西欧圏は報道で見る世界であって、肌触りのあるリアルじゃないんだなと。 『公研』2022年12月号の対談 で、岩間陽子・政策研究大学院大学教授と池内恵・東京大学教授が世界をメインストリームとローカル線にたとえた上で、「世界の大部分はローカル線」(池内先生)であるにも関わらず「新幹線に乗っている人たちはローカル線の知識がない」(岩間先生)「知らなくても生きていけるし、役に立たないと思っている」(池内先生)点を議論されていたが、将来エリートとして社会を引っ張っていくであろうクラスメイトが、まさにそうなのである。 この論点はさすがに違う視点が必要では、と思う際には非西欧的意見を入れ込むけれど、ディスカッションの流れを崩さないように短く終えるよう意識しすぎると、周りにあまりにもバックグラウンド知識がないので、なぜその発言をしたのか意図が伝わらないし内容も理解してもらえない。つま